最低でも知っておきたい! 5つの常識: 天才レオナルドダビンチ
2019年6月メールマガジン
今年2019年は天才レオナルドダヴィンチ
没後500周年です!
フィレンツェ、イタリア、
そしてイタリア文化遺産にとって
とても重要な年なのです。
2019年は
メディチ家のカテリーナ(フランス王妃)
とコジモ一世Cosimo I de 'Medici
(トスカーナ大公)の生誕500周年
(それぞれ1519年4月13日と6月12日)であり
なんとレオナルドダヴィンチの没後
(1519年5月2日)500周年となります。
今日は,レオナルド ダヴィンチ
Leonardo da Vinci:
天才に関してをテーマに
させていただきたいと思います。
(難しくなく,
誰でもわかりやすいように書きますので
どうぞ最後までお付き合い下さいませ!)
なんと今年2019年のニュースは
レオナルドは左利きだと言われていましたが
実は左手でも右手でも書くことができたと!
言う事実が発見されました。
しかも字を書くことだけでなく,
両手で絵も描くこともできたそうです!
本当に稀にない天才と言うのは
このことからもわかりますよね。。。。
Pietre Dure研究所のCecilia Frosinin氏は
近年のダヴィンチコードの修復中に,
「8Pという書記」の修復中に,
両手を使って書いていると言うことを
発見したそうです。
おそらくレオナルドは生まれつき
左利きで、幼少の頃からは
右手で書くように習ったので
両方とも使えるようになったのでは
ないかと言う見解です。
今年はイタリア中そして
ヨーロッパ中でレオナルドダビンチの
没後500周年を記念して
いろいろな展示会などが行われています。
今日は
「最低でも知っておきたい!
5つの項目: 天才レオナルドダビンチ」
というのをテーマに
よく皆さんからある質問を
利用してご説明してみたいと思います。
- 何故「モナリザ」はパリのルーブル美術館にあるのか?
よくこの質問はお客様からされますが,
いろんな雑誌やガイドブックに
「ナポレオンが盗んできた」
なんて言うデマが書いてあるので
これを信じていらっしゃる方も
多いかもしれません。
(確かにルーブル美術館は
ナポレオン軍が略奪してきたものが
多いのは認めますが)
「モナ・リザ」は、
レオナルド・ダ・ヴィンチ自身が
フランスのフランシス1世の元に使えていたので
実際にはフランスで仕上げられたものです。
確かに書かれている人物である
「リーザ夫人」(Lisa Gioconda)は
フィレンツェの公爵夫人で
もともとはフィレンツェで描き始め,
それをずっと彼自身が気にいって
ゆっくり完成しながら
フランスに持っていったものだと
言われています。
1625年には、モナリザは
フランス王の作品コレクションとして証明され、フランス革命後に
ルーヴル美術館に移されました。
実際には、レナード・ダ・ヴィンチの
モナリザは、1911年に
イタリア人によって盗まれた事があります。
盗んだ人物は
「モナリザは,
フィレンツェで描かれたので
フィレンツェになければおかしい」
と言う意見も持っていたので,
そのままFirenzeに持ってきたところ
警察に捕まったそうです。。。
当局によって回収された後、
世界で最も有名な絵画は
ルーブル美術館の
今の場所に戻されました。
2 - LeonardoとMichelangeloは友達だった!?
天才レオナルドダヴィンチ
Leonardo Da Vinciと
巨匠ミケランジェロ ブォナローティ
Michelangelo Buonarrotiには
20歳以上の違いがありましたが、
同じ年に2人に依頼された「フレスコ画製作」で
フィレンツェのヴェッキオ宮殿で
一緒に働いたことは確かです。
( 残念ながらこの2人の巨匠の
フレスコ画は未完成のまま
終わってしまったので
現在は見ることができませんが)
但し、2人の仲が良かったと言う証拠は
一切見つかっていません。。。。
レオナルドはとても美男子で
おしゃれで社交性のあった人だと言われています。
その正反対でミケランジェロは
すごく醜男で、短気で喧嘩っぱやく,
全く友達がいなかったと言われているのです。
特に若いミケランジェロからの
2人の間の嫉妬について語った
いくつかの逸話があります。
Anonimo Gaddianoの手記
ミラノのFrancesco Sforzaオーダーの
巨大な騎馬像を完成させなかったためにMichelangeloが
Leonardo da Vinciを嘲笑した下り:
「あなた(レオナルドダヴィンチ)は
青銅で鋳造する為に
に馬の絵を描いた。
それなのに、作品を完成することができなかった。
恥をかいたと思って、
全てを放置したと認めなさい」
その他にも
民間伝承などで
二人が良きライバルだったという
事が伝えられています。
確かなことは、
二人がお互いから学び、
お互いに影響を及ぼし合ったという事ですよね。
3 - Leonardoのミラノの
最後の晩餐には、
「ダ・ヴィンチ・コード」に
書かれているように、マグダラのマリアが
表現されているのですか?
ダンブラウンのすべての読者は、
マグダラのマリアが
レオナルドの最後の晩餐に描かれているのは
本当かどうか疑問に思うところです。
それを信じている方には
がっかりさせてしまうかもしれませんが,
ダンブラウンの小説を
実証する実証する記録や
科学的証明などは
ありません。
確かにMilanoの最後の晩餐の
キリストの左横に描かれた人物は
とても女性らしく見えますよね。
ダンブラウンの
「最後の晩餐」
マグダラのマリア説は
確かに小説を読んでいて
とても面白い見解ですよね。
天才のレオナルドダヴィンチ
のイメージ、
彼の奇妙な習慣、
彼の性格は、
ミステリー的なオーラを
創り出すことに
なりました。
しかし、私たちは、
「事実」と
「もっともらしいもの」と
「発明されたものと」を
区別しなければなりませんよね。
4 - レオナルドは美男子で、
鏡文字を書いて、変装好きだった!?
レオナルドについては過去
いろんなことが噂されました。
よく知られているのは
彼は生まれつき左利きで、(その後両利き)
文字を書く時は右から左に書くだけでなく,
鏡文字を使って書いていました。
「なぜ鏡文字」?
それは、容易な解読が不可能だからです。
1500年代の手記が残しているのは,
レオナルドは当時とても背が高く
(173センチ身長=その当時の平均身長と比べるとかなり高い方です)
とてもジェントルマンだったと
記録されています。
歳を取ってからもダ・ヴィンチは
若い男性のように、
短パンにカラフルな服を好んで
を着ていたそうです。
(バチカンの衛兵のカラフルな服装も彼がデザインしたものだと言われています。)
しかも長いヒゲと長髪というのも
周りから見るととっても
風変わりな人だったと思われます。
でも確かにウフィツィ美術館にある
「東方3博士の礼拝」
に29歳のレオナルドの姿が
登場するのですが,
とっても美男子なんです!
それに比べると,
ライバルと呼ばれたミケランジェロは,
弟子が作った銅像が残っていますが
すごく醜男なんですよね。。。。
本当に正反対の2人だったんでしょうね。
5 - レオナルドダヴィンチが
同性愛者だったのは本当ですか?
今現在でも
アーティストと呼ばれる人たちは,
様々な噂が立ち,
いつも話題に上っていますよね。
しかしそれが必ずしも事実とは限りません。
ミケランジェロはおそらく、
同性愛者であり、
彼は他の男性と親密な関係を
持っていたことが知られていますが
(彼自身の著作から推測可能)
レオナルドにとって状況は少し違います。
Leonardo da Vinciは
同性愛者(当時は罪であった)の容疑で
2回ほどFirenzeの裁判所に,
告発されましたが、
無罪になりました。
実際にレオナルドの書記の中で
同姓愛者をほのめかすような
文章は一切見つかっていないんです。
それなのにどうして世界中で
彼は同姓愛者だと言う噂が
これだけ根強いのでしょうか?
レオナルドの絵画の中で
女性の肖像画はほとんど
男性の性格を持った顔
(特にモナリザなど)が
多いことが指摘されています。
確かにレオナルドの作品も
ミケランジェロの作品も
すごく美しい
妖麗な女性というのは、
あまりありませんよね。
学者の中ではレオナルドが「サライ」という
アダ名で知られている
ジャン・ジャコモ・カプロッティと関係を持っていたであろうと言われますが
これも全く証拠はありません。
15世紀当時は同性愛は完全に犯罪でしたが、
Firenzeはその当時から同性愛者が多く,
当時も水面下では
かなり容認されていたそうです。
今現在でもヨーロッパ各地からは
たくさんのゲイが集まる街として
知られているんですよ。
レオナルドは非常に素晴らしい
自然観察者であり,
生涯続けて女性や男性の区別なく
動物植物さらに自然現象などを
たくさんデッサンしたことで知られています。
ですので彼は性別を超越した
美しさを見ていたのではないかと
私は思います。
- レオナルドダヴィンチは一体何者?
Leonardo da Vinciの生涯についてもっと知りたいですか?
時代を超越した芸術家の人生の
簡単な生涯をご紹介しておきましょう。
レオナルドは芸術家、
エンジニアそして科学者でした。
彼は1452年4月15日、
地方公証人の非嫡出子して
フィレンツェの郊外
50km程の田舎
AnchianoのVinci村で生まれました。
14歳までは自然沢山のヴィンチ村で
過ごしたレオナルドは,
自然現象や鳥の飛び方などを
幼少の頃によく観察していたと言われます。
父とともに14歳に
大都会であるフィレンツェにやってきた
レオナルドは,当時最も有名だった工房である
ヴェロッキオ工房に入門します。
(ちなみにこの工房には
有名なボッティチェリやペルジーノ等も
入門していたことで知られています。)
1482年から1500年まで、
彼はおそらく "大使"の役割でミラノ滞在し
Ludovico il Moro(ミラノ大公)
に仕えることになります。
その後の数年間、
彼は重要人物の奉仕のために
イタリア半島中を広範囲に動き回りました。
1517年に彼はフランスへ出発し、
フランス王「フランソワ一世」の
もとで働くようになります。
1519年に67歳を全うしフランスの
アンボワーズAmoboise城で亡くなりました。
彼は生涯を通して
芸術家で
発明家であり、
実験者であり、
偉大な科学者でした。
彼の発明や直感は
その時代の人には
全く理解できないことでしたが,
今現在では「驚くべき先見者」
「天才レオナルドダビンチ」
として知られているのです。
<<<<<<<<<編集後記>>>>>>>>>>>
今年は娘リンダが(高校生16歳)
学校の古代ギリシャ劇クラブに入りました。
(いったい古代ギリシャ劇って何?
と思われる方もいらっしゃると思います。
日本ではあまり知られていない
この古代ギリシャ劇と言うのは,
悲劇が多く,トロイの女性や
ウリッセ,アキレスなどが登場する演劇のことです。)
そのイベントの一環として,
イタリア中の演劇部が集まる
シチリア島シラクーザの高校演劇大会に
先月5月に行ってきました!
初めて自分の娘が
演劇をするところを見るので,
とても楽しみで,朝早くホテルを出発し
古代ギリシャ劇場
Palazzolo Acreide
に向かいました。
前日から娘には
「私たちは1番最初の演目で
9時にはスタートするので
その前に絶対来てね!」
と3回ほど念を押されていたので,
車を飛ばして9時5分前には
到着した私たち。
ところが…誰もいないんです。
他4校が集まる予定なのに
バスも生徒たちも全くいないのです。。。。
「もしかして場所間違ったかしら?」
不安になった私たち夫婦は,娘に
電話をしてみました。
私: 「今劇場に着いたんだけれどどこにいるの?
ひょっとしてこの場所じゃないのかしら?」
聞いたところ
娘: 「まだ送迎のバスが遅れていて、
ホテルでずっと待ちぼうけ」
...........さすがシチリア。。。。
もちろん時間通りに
始まるはずは無いとは思っていましたが,
開演時間の9時になっても
どの学校もいないのは
さすがにびっくりしました。
劇場の方から1人慌てて
おじさんが走ってきました。
もう1人の係員ぽい人とあわただしい声で
「ベルギーの高校を迎えに行くバスが
突然キャンセルになってしまって,
車がなくて困っている。
仕方がないから何回か
私の車で往復するから
ちょっと開演を待っていてくれ」
さすがシチリア島。。。。
ここはバスがあってないようなものだと
感じました。
(ちなみに私たちはレンタカーで行きました)
すごく困ってそうだったので,
やることない私たちは,
主人が車を出してその
ベルギーの高校生をホテルまで
迎えに行ってあげることにしました。
ところが…
しばらくしてから
迎えに行った主人から電話があり。。。
「先導していた前の車を
見失ってしまった!
ナビもないので自分がどこにいるのか
よくわからない!
車に乗せているのもベルギー人なので
全くイタリア語が話せない!
俺はどうすればいいんだ!!」
と激怒しながら電話してきました。
私は内心
「こんな田舎で迷う人も珍しいよね。。。」
と思いながら
「この街で古代ギリシャ劇場は
1つしかないんだから,
誰か人に聞いてみて」
と言って電話を切りました。
その30分後ぐらいに
やっと無事に主人の車は戻ってきました。
話を聞くと,イタリア語が
わからないベルギー人でも,
状況はわかったみたいで,
彼らがナビで先導してくれて
到着できたと言う話でした。
結局、開演は2時間後の11時位から
始まったんです!!
ですのでイタリア時間よりもさらに遅い
シチリア時間を実感したエピソードでした。
でも演劇はとても素晴らしく
高校生とは思えない本格的な
そして感動的なものでした。
特に娘の演じた,
Andromacaアンドロマカ
(エットレの妻)
は生まれたばかりの子供を失う悲劇の女性で,
ついつい涙が出てしまいました。。。。
やはり私も親バカですよね。。。